僕の音ルーツ~小学校時代

■家庭にジャズ
子供の頃から、家庭は音楽(ジャズ)に溢れていました。
何せ両親、特に母親が音楽好きだったので。

そもそも母親というのが、宝塚歌劇のかなりの信者(?)でした。
というのも、元々本人が歌劇団に入りたかったのを、母の両親たちに止められた事がよほど悔しかったのでしょう。その反動でしょうか、宝塚への憧れの熱い想いのホコサキは、自分の家庭や生活へ向かったのですね。おかげで、まだ小さかった僕は、宝塚歌劇やその他の舞台などにさんざん連れ回されることになりました。

母はよく父と踊っていました。
レコードをかけ、タタミの上でジルバなどの社交ダンスらしきものを練習していました。それはとても楽しげで、そんな二人の姿はもちろん小さな僕にとって幸せな景色の一つではあったけれど、そんな事は当時の僕には判りませんでした。ただただ、おもしろいなぁ、楽しそうだなぁ、と思って、二人が夜な夜な練習する姿を眺めていたものです。

また、母親は時には小さな僕の手をとり、無理矢理ダンスの相手をさせられたりもしました。
ネアカな性格と音楽への憧れを生活一杯に満たしていた母親と、それに影響されて一緒に楽しんでいた父親・・・今思うに、幼い頃に体験した、僕の音楽の原風景なんですね、これが。

■50年代のニッポンのジャズというと
さて、ジャズというのは、いわゆる「洋楽」のことで、当時は洋楽の事を総称してジャズと呼んでいました。
当時、海外ジャズがリアルタイムで流行歌として流れていた時代、日本では「江利チエミ」が大流行していました。

それからずいぶん後、僕が大人になってから、彼女の歌はダイナ・ワシントンとそっくりで、彼女の歌の中にダイナを見ることが出来てなるほどと納得した次第なんですが、彼女はいわゆる海外ジャズ(ポップス)を日本語と混ぜて、日本の歌として唄うスタイルの歌手でした。
「ビビデ・バビデ・ブー」「パパはマンボがお好き」など、思わず体が動き出しそうな楽しいリズム、メロディー、それまでの日本には無い曲調がとても新鮮でした。

日本の歌も、今と違って楽しかったな。
今のように、良くも悪くも選択肢の数も少ない分、音楽飽和していなかったせいでもあるけれど、音楽がもっと生き生きとしていた時代だったように思います。
「シャボン玉ホリデー」「紅白歌合戦」などの音楽番組はどれも華やかで楽しく、いわゆる歌謡の世界が開花した時代なのでしょう。

という事で、当然ながら僕は音楽好きな子供であり、自分なりに音楽を楽しむことをしていました。またそうして、自然と音楽の趣向の基礎が、じんわりと形成されてゆくことになるのです。

しかし、なのに!
学校の音楽の通信簿はいつも2でした。
学校で教わる音楽は、僕がもう既に知っていた音楽とはまるで違う、無味で退屈なものでした。

・・・ぜんぜん楽しない・・・。

何故なら、それは僕にとって音楽ではなく「音学」だったからです。
音楽と音学の違いについてはまた別の機会に書くことにしましょう。

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