四国クルージング-4

■太平洋!
別府港にようやくたどり着いた、それは、この旅の折り返し地点に到着したということです。
今までは、穏やかな瀬戸内の中に抱かれて走ってきましたが、帰路は太平洋を経由し、四国の太平洋側を走るのです。
「初めて」の事ばかりが続いたこの旅の、最大の初体験は、この太平洋との出逢いだったのです。

では具体的に太平洋、というと、例えば瀬戸内海と何が違うのでしょうか?
行く先に何も景色が無いという体験を、海の上でした事がおありですか?

日本近海はほとんど、特に瀬戸内海は当たり前ですが、常に両側に丘の景色が見えます。
右手には兵庫県から始まり岡山、広島、山口、左手には香川、愛媛と続くのです。
丘の景色が見える事は、我々阪神間に暮らす者にとっては特に、当たり前の景色すぎて改めて考える事などありませんよね。
しかしこのことは、とても大きな安心感をもたらす環境だということが、このすぐ後、僕はその時の僕なりによく判る事になります。

その先ずっと後に、もっと大きな外洋に出た時のスケールとは違いますが、その時の僕にとっては、大きな感動と未知体験からくる最高の緊張でした。

若き日の Mr. JIB 四国クルージング

さて、別府港を出港しまもなく佐賀関を越えると、豊後水道(九州と四国の間の航路)に入ります。
ここを抜ければ、いよいよ太平洋が目の前に広がるのです。

左手には四国の佐多岬、右手には九州の佐賀関を越え、さあ、太平洋だ!
それは、全く違う波の大きさや海のスケールでした。
何せ、今までは平和な瀬戸内だったのですから。それまで前後左右にあった筈の丘の景色が、次第に変わってきました。
目の前に広がる景色が遠く、ただただ、海の先に集約されてきたのです。太平洋の入り口まできたのです。

間違って向こう側に行ってしまったら、怖いな・・
歴史上で言う大航海時代(15~17世紀)大昔のマルコポーロやコロンブスなどの先人たちは、この先を行ったのです。
向こう側が何もわかってないのに?!
ものすごい勇気だ!
しかし何を求めて?
しかも、その無謀な旅に着いて行ったクルーも居るのだ。
これこそが、世界史だ!!

・・・・

僕は、ちょっとした興奮と恐怖の中で、アジアの隅の太平洋のはしっこで、先人たちとつながっていました。

・・・

波は豪快で大きく、未体験のセイリングです。
慣れぬ内は「一体どないなるんやろ!」と、たじろぎましたが、それもつかの間。
こんな大きな波でも乗り越えて行けるのだと、体と頭で理解出来る頃には、すっかり慣れていました。

■リアス式海岸
僕たちは最初の寄港地を、高知県の土佐清水港に決めていました。
土佐清水は四国の最南端、足摺岬を少し奥に戻った港です。
僕たちは目的地へまっしぐら、日振島が横に見えてきました。
日振島は小さな島で、この辺りはそのような小さな島が幾つもある海域です。

しばらく走った頃、快適なセーリングだったのですが、風が次第に強くなり、波も大きくなってきました。
波の大きさは内海から太平洋へ出るのと併せて、どんどん大きくなってきました。
そこで、このまま土佐清水まで行くのは難しいと判断し、僕たちは最寄の港に避難する事にしたのです。

チャート(海図)を見て、避難先を宇和島市の北灘湾へ一路。
やっと風と波が避けれられる湾に入ったときは、もうすっかり日が暮れていました。

さあ、アンカー(錨)を降ろすぞ。
しかし、・・・ん・・・?

ロープが止まる海底になかなかアンカーが着かないのです。
いつもならとっくに届いていても良いだろうの時間、手の中をするするとロープが海の中へ引き込まれてゆくのです。
岸はすぐそこに見えているというのに、何故?
・・・そんな疑問を抱えながら、アンカーが効く所までそろそろと奥へ進みました。
もちろん、誰も知らないところだったので、慎重にそれ以上奥へ進まず、夜が明けるのを待ちました。
僕たちはNHKの気象情報を聞いたりゲームをしたりで一晩過ごし、翌朝、明るくなった海岸を奥へと進みました。
みかんが海面いっぱい浮いていたのが印象的でした。

海岸線の入り組んだ地形・・・
なかなかアンカーが届かない深い底・・・
・・・そうか、ここはリアス式海岸や!
僕は中学校の地学の勉強を思い出し、なるほどと思いました。

九州と四国の継ぎ目の間、地球が長い年月をかけて大陸を引き裂いた跡をそのまま残すような、複雑な海岸線が続くのです。

さらに奥へ行くと、何とそこには小さな町がありました。
「岩松」ということがわかりました。
僕たちはそこでもう一晩泊まり、翌朝出港、土佐清水の寄航は止め一気に徳島県の日和佐港まで走る事に計画を変えたのです。
思わぬ予定変更でしたが、偉大な自然の力の前に、私たちは常に謙虚であり慎重でなければなりません。

気象の事や地形の事、もっとちゃんと勉強をしておけば良かった・・・
予測が出来るようになっておけば、もう少しうまい段取りが出来たのに・・・
そんな思いをかみしめた寄港でした。

【教訓6】 海に出る者は、気象の勉強は絶対条件や

■電リク
岩松港を出航し足摺岬を回った頃、夜中の一時過ぎくらいの出来事。

僕たちは持ち込んだラジオをいじって、そこから拾いあげる電波を見つけて遊んでいました。
すると、いつも僕が聞いてた電リク(電話リクエスト)が、聞こえてきたのです!

さて、『電リク』は今でももちろん幾つかの番組があるようですが、当時はAMラジオで毎晩2~3時間放送されており、非常にポピュラーな娯楽でした。
今のようにメールやファックスなどはなく、リクエストは電話のみ。
また、『○○さんから○○さんにメッセージ、・・・・』と、単にリクエストでなく公共の伝言板のような役割もあり、リクエスト曲と併せてメッセージを読み上げられてもらえたのです。
それらにはそれぞれに意味があり、それを聞くのも楽しかったのです。
自分へのメッセージが電波に乗って曲と共に流れてくる、ちょっとロマンを感じる番組でした。
受験生は皆、たいがい電リク愛聴者で「ながら勉強」という言葉が出来たほどでした。

さて。
「お!電リクや!」と、キャッチした電波を皆で聞いていると、何と僕の名前が出てきたではありませんか!
僕の父親から、僕へのメッセージでした。

「お父さんからメッセージです。もし聴いていたら家に電話をしなさい。予備校も申し込んだぞ。」
というような内容でした。

今思えば、とんでもない浪人生、さぞかし心配をかけただろうと充分に理解出来るのですが、その時の僕の心境はと言えば、うわぁ〜〜!!いきなり現実に引き戻された!というような、少し気の重いハプニングでした。

しかし驚いたのは、リクエスト曲に僕の好きな曲を選んでくれた事です。
当時好きだった洋楽か何かだったと思いますが、父親はちゃんと知っていたのですね。
そんな父親、母親を、自分が親になって、初めて有り難いと思う・・・これは、世の常とはいえ、ほんとうにその通り事なのです。

■潜水艦
西宮を出港してからもう何日も経過していました。

足摺岬を越えて室戸岬まで、地図で見たイメージよりもずっと遠く、時間もかかりました。

翌昼頃、その足摺岬と室戸岬のちょうど中間ぐらいのところです。
前方、かなり遠くににドラム缶のようなものがポコッと立っている(浮かんでいる)のが見えたのです。
何だろう?と思いながら近ずくと、それは何と潜水艦の一部だったのです。

色々な出逢い・・・動物や土地やハプニングも含めて、潜水艦と海で出逢った事も、非日常な航海の印象深いエピソードです。

■旅の終わりに
よくよく見知った土地であったとしても、例えば、海側からそこを眺めることを想像してみて下さい。
さらに、何日も旅をして帰ってきた懐かしい景色を、海側からアプローチすることを想像してみて下さい。
何とも不思議な、新鮮な感じがしてきませんか?
じわじわとゆっくり、しかし確実に近づいてくる懐かしい景色が、無事に帰ってこられた喜びをいっぱいに膨らませるのです。
でも、旅の終わりに待っていたものは、喜びだけではありませんでした。

・・・

室戸岬を回り、進路を再び瀬戸内方面、徳島県の日和佐へ。日和佐から四国の南を大きく周り大阪湾を目指します。
そして数日間かけ、目前には淡路島、右手には和歌山、紀伊水道を超え、友が島水道を玄関とする大阪湾の入り口まで僕たちは無事に帰ってきました。
背中から受けていた西風は北風へと向きを変え、風上へきり上がりながら走ります。
色んな事を乗り越えた旅の終わり、やっと見慣れた景色が広がる。旅が終わる淋しさと安堵感が入り交じって、複雑な思いでいっぱいでした。いつもヨットを乗ってきたホームグラウンドの西宮の海は、旅が終わる時には安心感をいっぱいにたたえた小さな海に変わっていました。

こうして、瀬戸内海を西へ横切り、四国をちょうどぐるっと一周したような旅は、全行程で2〜3週間ほどで終わったのです。
それまで1年ヨットにどっぷり明け暮れた僕の、その時の最大級のヨット体験です。
そしてこの旅のさまざまな体験は、僕の体に脈々としみこみ、その後の僕の人 生にももちろん深く関わる事になるのです。
次々に開かれてゆく未知のものや新しい景色との出逢いは、常に夢が膨らむワクワクした気持ちを与えてくれ、と同 時に、大きな緊張や興奮も。
また、それまで僕が体験していた自然の驚異、脅威の壁が、どんどん塗り替えられてゆく旅でした。

楽しいこと、嬉しいこと、怖いこと、悔しいこと、四国って大きいな。
また、小さいなあ、と。

しかし何と言っても、この旅の最大の恩恵は「充実感」なのです。
僕たち若者4人組だけでやってのけたんだ!という、誇らしさ、幾つかの困難を乗り越え、知恵を出し、ちゃんと無事に帰って来られたという大きな達成感なのです。
それは、その後の僕のヨット人生に、大きな勇気と自信を与えてくれる旅だったのです。

若き日の Mr. JIB 四国クルージング

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