ヨットとの出会い
■18歳・春(1967年)
僕が初めてヨットに出会ったのは、18歳の春でした。
大学受験が終わり浪人が決定した時です。
今日から一年間は頑張ろうと思う反面、今日から思いっきり自由やな、とも思っていました。
毎日、自転車でヨットハーバーへ行き、飽きることなくヨットを眺めていました。
あの中、いったいどうなってんねんやろ?、と。
僕の好奇心の針が、今よりもっと敏感に振れていた頃です。
■ヨット生活の始まり
ある日のこと。
「おおい」 「乗るか?」と言う声が聞こえました。
何のためらいもなく僕は「はい」と答え、その声の元へ走って行きました。
声をかけてくれたのは、ハーバーでアルバイトをしている青年でした。
彼は僕をディンギー(小さなヨット)に乗せてくれると言うのです。
そして僕は彼と二人、沖へと出たのです。
音もなく海をなめらかに滑るように進み、舵と帆で好きなように走る。
私はいっぺんにヨットの魅力にはまってしまい、毎日ハーバーへ手伝いに行くようになりました。
もちろんギャラなんてものはありません。無償の奉仕です。
が、ボートを押したりヨットを洗ったり、他の人から見ればいかにも地味な雑用そのものが、
充分に「遊び」であり、それら一つ一つがとても楽しかったのです。
■外洋ヨットのクルーになる!
初めてディンギー体験をしてから数日後、外洋ヨットに乗るチャンスが来ました。
外洋ヨットとは「キャビン付きのヨット」というのが、ざっくりとした定義です。
当時外洋ヨットなるものは、ほんの一部の方々だけの持ち物だったため、今の時代以上に人々にとってはより遠い存在でした。
僕の居たヨットハーバーにも、わずか数艇あるのみだったのです。
そんな時代、まもなく僕は生まれて初めて外洋ヨットと出逢うことになります。
話しは少しそれる。
その当時、堀江健一氏のマーメイド号が、単独太平洋横断に成功したニュースが日本に溢れた少し後だった。
言わずと知れた堀江氏は、我が町、西宮出身である。
日本はそのニュースに湧き、その偉業は、石原裕次郎が主演で「太平洋ひとりぼっち」という映画化されるに至った。
僕の居たヨットハーバーに映画のロケがきたりもした。
そんなことで、僕の周りはもちろん、日本中が海に関わることがちょっとしたブームになっていました。
小さな西宮の海から世界に向けて、夢が広がるイメージを誰もが持った時代でした。
さて、マーメイドは18フィート(約6m)の小さな船。
僕が声をかけてもらったオーナーの「ナオタン」という船は、24.5フィート(約7.5m)、定員が5~6人ほどの、当時としては大きい方のクルーザーでした。
新米クルーの僕と先輩クルーは、そのヨットクラブから紹介され、そのオーナーの船のクルーとして乗せてもらえる事となったのです。
初めて見るキャビン(ヨットの船内)には、ベッドや小さなキッチンが装備されており、見たこともない世界が広がっていました。
僕は、大変な驚きと感激に包まれました。
へぇー、こんな中で充分生活しながら走れるやん!
お茶も飲めるしゴハンも炊ける。
むき出しだけれどちゃんとトイレだってある!
幼い頃の、隠れ家や基地ごっこをしてワクワクした思い出がふわっとよみがえる。
さらに、小さくてもそれは充分に豪華と呼べる装備で、こんな乗り物に乗っている、という自分が、何ともかっこよく思えたのです。
これがまた、非常に気分が良かった。
その頃僕は、完全に役に立つクルーとは言えるものではなかったので、何となく「乗せてもらっている」感があったにせよ、とにかくそれは僕にとって最高の優越感でした。
ヨットとは、夢の広がるものやなあと思いました。
その後、その船のオーナーが「この船に乗るか?」と声をかけてくれました。
もちろん答えは即答、イエス!に決まっていました。
そんなわけで、この日から僕は、外洋ヨットのクルーになったのです。
・・・・
もう受験のことは完全に忘れていました。
興味があるのは、ヨットの事だけでした。
ヨットのこと、ロープワークや帆走のこと、自然と向き合うための知識などを、
夢中で覚えました。
覚えることは山のようにあったけれど、受験勉強のは違って、
それはとても楽しい勉強でした。
【to be continue・・・】